顔と革ジャン。

顔は年と共に変化していく。

 

言葉通り老けていく人もいれば、

年を重ねていくと、若い頃はブサイクでも

シワや佇まいに味が出てきて、紳士や淑女の顔になっていく人もいる。

 

内面から出てくる要素が大きくあるのだと思う。

 

男の場合は、

失敗を含めて色んな経験をしている事、ひけらかす事無く勉強している事が大切なのだと思う。

そんな変化していく『顔』に掛けられるメガネを製作しているのは、面白い事だ。

 

僕は今年四十を迎える。いよいよおっさんの仲間入りだ。

話は少しそれて、ずっと憧れていた服がある。

 

シングルのレザーのライダースだ。

まぁ要は『革ジャン』だ。

 

ずっと僕にはまだ早いと思っていたが、四十を迎えるので思い切って購入した。

着込んでいくと年と共に味が出てきてくるのが『革ジャン』だ。

これから沢山着てやろうと思う。

 

革ジャンと共に僕もいい味のオッサンになれたらと思う。

そんな紳士、淑女の為にもメガネを作るよ。

 

さぁ 明日もやろう。

2020年9月9日 10:41 PM  |  カテゴリー:メガネについて思う事,私事

前回の続きです~。

 

スルタンであった『アル=カーミル』はフリードリヒのアラビア語で書かれた手紙の内容に

大いに感動し呼応した。

「フリードリヒよ。そなたの意向は理解した!!我らイスラームは一旦退こう。」と。

 

実際にフードリヒ2世の十字軍がエルサレムへ進軍した際、

八百長のような、なんちゃっての戦いだけして、イスラームは退き、お互いに血が流れる事は殆ど無かった。

 

そして外交交渉により、ある程度の目的は達成された。

 

十字軍が進駐している間は、イスラーム側が気を使ってモスクから礼拝の為に鳴らす鐘を止めていた。

鐘が鳴らされていない事に気付いたフリードリヒ2世は

「遠慮せずイスラームの礼拝の鐘は鳴らしてください。」と伝え、

そこから再び鐘が鳴り始めたと記録に残っている。

 

しかしエルサレム奪還が八百長である事は教皇の知る所となり、怒り狂った教皇は

フリードリヒ2世をキリスト教から破門してしまい、この十字軍自体が無かった事にされてしまう。

 

歴史上で領土を大きくした君主や、国を豊かにした王様は『大帝』、『名君』と呼ばれるが

フリードリヒ2世にその呼称は使われない。

 

まぁそうだろう。

しかし僕は冷徹ではない人間味を持ったこの王様が大好きだ。

 

彼のお墓は今でもシチリア島にあって、墓標には

ラテン語とアラビア語の二か国語で書かれているらしい。

死後もイタリア人、アラブ人の双方から慕われていたんだなと思う。

 

 

そんな時代に起こった『メガネ』の事も書こうと思う。

このイタリアをもう少し北側の町の『ヴェネチア』に目を移して、

とあるガラス工房の話。

 

そこには老眼の親方と、弟子がいた。

 

弟子が高温に熱せられたガラスを筒から「プゥーー!!」と空気を送ると膨らみ

それをピカピカに研磨して、枠にはめ込んで覗き込んでみると

 

「あらまー!! 親方!! 文字が大きく見えまっせっ!!

これなら親方も読めますね!!」

となったのが『メガネ』の始まりと言われている。

 

 

この実用性に長けた『メガネ』だが、作られた当初は教会から『悪魔の道具』とされ迫害されている。

もう少し後で活版印刷が発明されて『本』が普及され始めた頃から『メガネ』も市民権を得るようになる。

 

メガネ職人の僕から見たらイタリアは面白い。

いつかシチリア島で取り扱ってもらえるお店が出来たらなぁと思う。

 

それまでコツコツ作るよ。

 

 

2020年8月29日 9:24 AM  |  カテゴリー:メガネについて思う事,その他

相変わらず『世界史』を時間がある時に学んでいる。

ロシアのピョートル大帝、イタリアのフリードリヒ2世、タイのチュラロンコン大王がとても好きだ。

ピョートル大帝の事は以前こちらで書いたので

 

今回は約800年前の13世紀にキリスト教が聖地を巡って十字軍を派遣し

イスラム教と対立していた時代に

イタリアのシチリア島に生まれたキリスト教徒の王『フリードリヒ2世』の事を

後半で『メガネ』も絡めて書こうと思う。

 

フリードリヒが生まれる前の11世紀までのシチリア島は

イスラム教徒の島でアラブ人が多く住んでおり、『学問』、『科学』、『医療』で進んでいた。

そこに北方からノルマン人が流入しシチリアを支配した。

だがアラブ人達の先進的な能力を目にして、彼らから学び、そして重用し

十字軍が始まるまでは共存していた。

 

そんな中、シチリア島にキリスト教徒の王として 『フリードリヒ2世』が生まれた。

僕はこんなスットンキョウな絵を描いたが、実際に残っている肖像画もスットンキョウなのだ。

けども彼が行った事はカッコいい。

 

他のヨーロッパ諸国と違い、アラブ人の家庭教師、侍従がいる中で育った

フリードリヒ2世はイタリアのラテン語以外にアラビア語など習得するなど

イスラム教徒に対して敬意があった。

 

だがこの頃のヨーロッパではイスラム教から聖地エルサレムを奪還しようとする

『十字軍』で激しく対立していた。

 

そこにローマ教皇からフリードリヒ2世へ

第5回十字軍へ向かうように指令が下される。

 

イスラム教徒への敬意があったフリードリヒ2世は悩み

当時エルサレムを支配していた『スルタン(指導者)』へアラビア語の文章で手紙を送る。

 

「私はイスラム教徒達と争いたくありません。しかし教皇の命令は絶対で背く事は出来ません。

エルサレムに入城したとしてもイスラム教徒を襲ったり殺戮する事は決して行わないと約束します。

そしてイスラム教の信仰は保証します。

 

だから一旦退いてください。」と。

 

つづく。

 

 

 

 

 

 

2020年8月20日 11:07 PM  |  カテゴリー:メガネについて思う事,その他