三島由紀夫の『暁の寺(豊饒の海・第三巻)』を読み終えました。
第一巻の『春の雪』と、第二巻の『奔馬』を読んだ感想はこちら。
『暁の寺』の構成は大きく2部構成になっていて
1部は、『松枝清顕』、『飯沼勲』の輪廻転生を見続け、50代になった『本多』が赴任先のタイで、
再び転生をしてきた若き王女『ジン・ジャン』と出逢った後、
旅しながら仏教の世界に深く思惟してゆく物語。
2部は、生まれかわりを繰り返し若さを保ち、美貌も長けた『ジン・ジャン』に、
富も名声も得た『本多』は惹かれて、我が物にしたいと願いながらも、
自身の『老い』、相手の『若さ』の前に葛藤する物語だと思います。
この物語の1部がとにかく難解でした。
インドのサンスクリット語である『ヴェーダ』、『ウパニシャット哲学』(←仏教の生まれる際に根本となる書物)
などの言葉を用いて展開されていくので、
僕は、その言葉や哲学についていけずに80ページまでに読み進めた所で、黒い文字を追いかけていくだけの状態になってしまいました。
読み進める鍵を与えてくれたのは、これまで続けてきた『世界史』の勉強でした。
仏教の成り立ちや、どういった思想を持っているのか。
仏画で菩薩が虚ろな目をしている意味。どうやって日本へ伝来してきたのか。
例えば、インドの仏教がある時点から、ヒンドゥー教と交わりを始めて
1つはチベットへ渡り、ダライ・ラマに代表される『チベット仏教』となり
その流れは東の『唐』へ、さらに東へ伝わり、空海が日本へ伝え『真言宗』となり、
壮大な長い旅があった事を知った。
知識を蓄えて、もう一度最初から読み始めました。
充全では無いものの、理解できる部分が大きく増えて、文字に色彩が帯び始めました。
仏教の目指す物の1つに『梵我一如(ぼんがいちじょ)』という言葉があるかもしれません。
『梵=宇宙全体の魂の源泉のような物』へ『我=悟った自身の魂』が『一如=帰っていく』事。
とは反対に悟れなかった魂は再び輪廻を繰り返し、転生をする。
非常に難解な言葉で綴られていますが、三島由紀夫はこの『輪廻転生』を正確に描きたかったのだと思います。
第2部は崇高世界から現実世界に戻ってきて
そして『老いていく』事の表現が多用されていました。
富も名声も得て紳士であった『本多』が、歳を重ねて得た権力ではどうにもならず
惹かれてしまった『ジン・ジャン』の裸を見たいが為に、部屋の穴から覗きみようとする変態性。
正義感をもった青年、紳士であった本多が、どうしようもなく崩れていく様が描かれていました。
僕が読み進めたのは、父上が「これが最も美しい文学だ。」と言って『春の雪』を渡してくれたからです。
けども第3巻には『美しさ』は無く、
『梵我一如』よりも、常に若さを保ち続ける『輪廻転生』を望んでいるような
三島由紀夫の内面の『悲哀』が描かれ、老いていく虚しさを吐露した
静かな白と青の世界だったと思います。
僕は三島由紀夫が『豊饒の海』を執筆していた年齢と重なっていきます。
その事も思うと、すこし感慨に耽ってしまいました。